食事が終ったあと、胴着に着替えた師範と弟子は道場で薙刀を構えて向かい合っていた。
面、小手、胴台、垂を付けた天音と、胴着のだけの多苗。
「はぁぁぁぁぁ!!」
一喝の後、天音が一歩踏み出し急所を突こうとすると多苗が天音の薙刀に絡ませるように薙刀を突き出す。音を立てて刀身がぶつかり合い、ひと際大きく高い音が道場に響いた。
柄を持った状態で腕を上げて驚いている天音と、その隙を逃さず薙刀を一閃させた多苗。
胴台を叩かれよろめきながら後方へ尻もちを付いた。
「たた…」
「まだまだ、だね。まあ、初めて習いに来た時よりはずいぶんマシになったけど」
にやにやと笑う多苗に、天音はさっと顔を赤らめる。
「か、からかわないでくださいっ」
そして、むぅっと顔を膨らませる。そんな天音を、けらけらと笑いながら立たせ、
「さあ、まだまだ!次!!」
多苗は薙刀を構えた。
思えば、どうしてこんなことになったのだろう?
ふと、多苗の薙刀から繰り出される突きを突きで返し、響き渡る音。
楽しそうに笑う多苗をみていると、そして多苗と稽古をしていると、いつも脳裏に浮かぶ。
(コスモスの畑で…)
顔が面白い犬に追いかけられて泣いていた。
その時は、その犬が怖くて怖くて、顔をくしゃくしゃに歪めながら逃げて。
コスモス畑の中にまで入って。
怖くて、怖くて。でも、わんわんって犬が追いかけてきて…。
ぼろぼろ泣いて、
そして…。
「せい!!」
カーーーン!と打ち鳴らされ、天音の手にした薙刀が道場の床に叩き落とされる。
「っ!」
しびれた両手と、胸に突きつけられた薙刀の切先。
「…。まったく、稽古中に意識をどっかに飛ばさない!」
睨みつけられ、身をすくませる。
天音は、頭を下げ謝るが多苗は人差し指でこめかみを押さえため息をつく。
「どうしてかなぁ?たまーーに、天音は稽古中に何かを考えているけど…。何度聞いても教えてくれない、いい加減にしてよ、もう!」
きつい一言に、天音は居た堪れなくなり何度も謝罪を繰り返す。
今日は笑って許してくれないらしい…。
もしかしたら、今までの分まで怒りが消えないかもしれない。
おろおろとする天音に、多苗は「教えろ」と床に正座をさせた。身を小さくして、天音は多苗を見上げるが、多苗はひと睨みした。
「……、むかし…です」
ポツリポツリと天音は語りだす。
「小学校、2年生のころ家族でピクニックに出かけたんです。そこは、一面コスモス畑で…とってもきれいだったんです」
そう、朱音ははしゃいではしゃいで、両親も朱音は眼を離すと何をしでかすかわからないからよく気にかけていて。私は朱音が楽しいと楽しくて…。
「気がついたら、迷子になっていたんです。他のピクニックに来ていた家族もたくさんいたので、それで私はお母さんと、お父さんと朱音を探したんです」
いつの間にか居なくなっていて…。とっても、寂しくて、怖くて、悲しくて、それでも泣いちゃいけないと思って家族を捜して…。
「そのあと、かわいいブルドック犬に追いかけまわされて、大泣きしたんです」
今なら、あの面白い顔の味が分かる。
(でも、あの時の記憶が鮮明で――いまだに苦手…)
「コスモス畑の中に逃げ込んでも、あのこが追いかけてきて…」
逃げても逃げても、追いかけてくる。
「気がついたら、夕暮れのコスモス畑に居たんです、そうしたら―――」
一面コスモス畑で、あの子はまだ追って来て、泣きながら逃げて逃げて、
「薙刀を持った男の人に助けてもらったんです」
柄の方で追っ払った男の人にびっくりして、目を丸くて、また大きく泣いて…。
「その人は―――」
ふと、視界が霞む。
鮮明に思い出せる、その時の記憶―――。
でも、あの『男の人』だけは思い出せない。
まるで―――あの人の周りにだけ霧がかかって、あの人のすべての行動が、
(思い出せるのに―――思い出せないの…)
息を一瞬つめて、そして吐く。
「気がついたら、心配していた両親の腕の中にいて…」
空は夕暮れの茜色でなく、青々したスカイブルー。
「えっとですね、それで―――」
あいまいに答えた天音に、多苗は苦笑いを浮かべ、
「つまり、あたしと打ち合っている時にその男の事を考えていた、と?」
「……え?えっと、…そういうわけでは…ただ、思い出せるのにその人だけはなんだかかすみかかってて―――」
ぽかんと口を開け、天音は首を傾げた。
「そっかそっか!初恋かぁ~~」
「え?は??…て、ちが、違います!全然、違います!なんでそうなるんですか!?ちょっとその時のことを思い出してただけです!本当です、むしろ、初恋って言ったら…透君っあわわわ」
ぽそぽそと消えるような言葉と、耳まで真っ赤にした天音の頭を乱暴にわしわしと撫で、
「御嫁に来なさい!絶対、透が幸せにするから!!ね!」
「……多苗先生…」
複雑そうな顔をして天音は笑った。
無理です。
と、言葉が出なかったのはきっとまだ、彼を『好き』だから…。
でも、
「透君、隠してますけど、彼女いるんですよ?」
と微笑んで言った。
***
多苗の運転する車に送られて自宅に帰り、リビングから流れている二十二時から始まるドラマのBGM。
確か、三角関係のもつれから大変なことになっているドラマだ、と覚えている天音はそれに釘付けの朱音にただいまと声をかける。
「お帰り~」
ぱっと振り返り笑顔を見せ瞬時にテレビの方へと向かう。ドラマが終わるまで朱音はリビングから動かないだろう。小さく息を突いて天音は二階の自室に戻り、ベットの上に鞄を置いた。
彼女がいる、と、多苗に言った時、何とも言えない表情で多苗は「そう」と笑った。そりゃ残念ね。とも言った。
「……残念…」
兄弟子の透はいつも天音と一緒に稽古をしてくれた。門下生が透以外いなかったことも要因だが、一緒に薙刀をしている時は楽しかった。
いつも一本取られて、悔しかったけどさすがは「透君」だと思った。
どさっとベットの上に身を下ろし、寝転がる。
いつだったか―――バス停で女の子と一緒にいた透君と出会った時、ぶっきらぼうに、紹介された彼女。
かわいい子だった。ショートカットの髪をした。元気で明るくて、まるで朱音のような子だとも思った。
起き上がり、制服の上着を脱ぎハンガーにかけた。きれいに畳んであるパジャマを手にして、稽古後の汗を流すためにお風呂場に向かった。
「天音、お風呂入る?」
コップにオレンジジュースを入れた朱音が台所からひょこっと顔を出す。
「あのね、お風呂上り用に冷蔵庫にアイスがあるからね」
「うん。ありがとう」
伝えるとひょこっと台所に姿を消す朱音に、礼を言う。
「あ、あと」
再び朱音がひょこっと顔を出し、
「明日も練習?」
と聞いてきた。天音は、午後からと答えると、うしっ!と拳を作ってガッツポーズをとる。
ふと天音は朱音のこういったしぐさに、強張った笑みを張り付けた。
「……、また?」
ため息とともに呆れを含んだ声色で朱音に告げた。
「そ。今度はサッカー部の…B組の瀬川君」
朱音は肩を落として困ったように笑った。
そんな朱音に天音は仕方ないと苦笑いを浮かべ、
「断ってきてあげるね」
そう言った。
***
次の日、天音は朱音に『頼まれ事』のために出かける準備をしていた。
『返答は明日の祝日で、待ち合わせは森の山公園で午前九時』
ふと、朱音の言い方に違和感を感じた。
明日の祝日。
それは、前もって言われていた言葉なんだろうか?
(それにしても…朱音の人気があるのも考えものね。ひっきりなしに手紙と告白、本人も断るのも大変だし…彼氏でも作ればいいのに…)
中学校の時は朱音の真似をして良く告白の返事を断っていた。
朱音自身が断ることを嫌がっているのではなく、告白がひっきりなしに続いていたので断るにも身体が付いていかなかったのだ。
という事で、代わりに天音が朱音の真似をして断ることにした。
誠実ではないと、相手に失礼だ、とも二人で考えはしたが…。
一方的に書かれる手紙の待ち合わせ時間。
『ずっとい待っています』
という言葉。
勝手に待っているのだ――放っておけばいい、そんな風に思えない…悩みぬいた、幼い二人が考えた手だった。
「村上さん」
待ち合わせのところでぼーっと立っている天音に、同い年の少年―――彼が瀬川君だろう―――が駆け寄って来た。
頬を紅潮させ、
「き、来てくれてありがとうっ。ま、待たせたよね?ごめんっ」
ドキドキと心臓の音が響くのか、ガチガチに固まっていた。
音《こえ》は努めて明るく、朱音の声色で返答する。
「ううん。今来たところだか、気にしないで」
と、少年はぽかんと口をあける。
「村上さん?」
「なに?」
「なんで朱音さんがここにいるの?」
「え?」
二人は顔を見合わせる。
「…、なんでって、瀬川君が呼んだんじゃ―――」
「は?俺が頼んだこと忘れたの?!」
は?っと天音の頭の中に疑問符が浮かぶ。
「天音さんに気持ちを伝えたいって!だから―――」
その言葉に、そして、思わず―――逃げた。
「ちょっ村上さん?!」
彼の叫び声に一心不乱で逃げた。
顔が、耳まで赤く染め上げて、
(あ、あかね~~~~~~~~~~~~~~~~~っ)
うらみがましく心の中で叫んだ。
いつもなら膝の丈の長さのスカートは今日は、一五センチほど短い。
衣服もガーリッシュな感じのもので、朱音の服装借りている。
そう、『朱音』としてここに来た――けど、相手が待っていたのは朱音ではなく、『天音』だった。
どんっと身体に衝撃が走り、体勢を崩して尻もちを突く。
慌てたせいで不注意で誰かにぶつかった天音はすぐさま、「ごめんなさい、すみません!!」と声を上げ、そして―――失った。
たぶん、互いに声を失ったはずだ。
「…天音?」
「…透君?」
後方から、村上さんっと声が上がる。はっと振り向いて、驚いている透とその隣の『女の子』―――いつかのショートカットの彼女に再び謝罪をして走った。
家に帰ると朱音はいなかった。
「朱音?さあ…。あ、あの子が、『ごめん、断わり切れなかったの』って言ってたわよ?」
と不思議そうに首をかしげた母親。
天音はぐったりとして自室に戻った。
朱音から借りた服を脱ぎ、自分の私服を手に取り――、ため息をついて制服を取る。
私服だと、先ほどのことがありありと思い出せてどうしていいのかわからない。
(き、きもちって―――告白?)
最後まで聞いていなかったために、どう判断していいのか――いや、もうわかりきっているのだが天音は認めたくないのだ。
洗濯をしてある胴着を入れた鞄を持って、家を出た。
バス停に向かう途中、
「……、透君……」
待ち構えたように彼が電柱に背をもたれかけ、彼がいた。
「…よ」
短い挨拶を交わし、透は天音の手から鞄を奪う。
「あ、いいよ…。私持てる、よ…」
透の持つ鞄の取っ手に指をかけると、ぶっきらぼうに俺が持つと帰って来た。
今日のバス停に向かう道のりは、とても息苦しい。
「あいつ、なに?なんで制服?」
透はそう天音に問いかける。と、天音は苦笑いを浮かべる。
「なんだか、制服が来たくなったの…。私服は…ちょっと…。あと、よくわかったのね。さっきぶつかったのが朱音じゃないって…。朱音の姿だと結構みんな間違えるのに」
おどけたように言う天音に透はむっとした。
「おまえ、まだあいつの代わりに告白断ってんのかよ?!」
荒あげられた声に一瞬ぎょっとして透を見た。そして、うつむいきながら笑う。
「ううん。もうやってないわ…。朱音は今、日焼けしてるし…二人で並ぶとね、朱音の肌がちょっと小麦色なの。ちゃんと日焼け止めを塗っているけど―――」
「俺が聞きたいのはそうじゃない」
ぴしゃりとセリフを遮られて天音は困ったように透を見つめた。
そして、
「…、今回は、私の人」
ぽつりと言葉を出した。
****
面、小手、胴台、垂を付けた天音と、胴着のだけの多苗。
「はぁぁぁぁぁ!!」
一喝の後、天音が一歩踏み出し急所を突こうとすると多苗が天音の薙刀に絡ませるように薙刀を突き出す。音を立てて刀身がぶつかり合い、ひと際大きく高い音が道場に響いた。
柄を持った状態で腕を上げて驚いている天音と、その隙を逃さず薙刀を一閃させた多苗。
胴台を叩かれよろめきながら後方へ尻もちを付いた。
「たた…」
「まだまだ、だね。まあ、初めて習いに来た時よりはずいぶんマシになったけど」
にやにやと笑う多苗に、天音はさっと顔を赤らめる。
「か、からかわないでくださいっ」
そして、むぅっと顔を膨らませる。そんな天音を、けらけらと笑いながら立たせ、
「さあ、まだまだ!次!!」
多苗は薙刀を構えた。
思えば、どうしてこんなことになったのだろう?
ふと、多苗の薙刀から繰り出される突きを突きで返し、響き渡る音。
楽しそうに笑う多苗をみていると、そして多苗と稽古をしていると、いつも脳裏に浮かぶ。
(コスモスの畑で…)
顔が面白い犬に追いかけられて泣いていた。
その時は、その犬が怖くて怖くて、顔をくしゃくしゃに歪めながら逃げて。
コスモス畑の中にまで入って。
怖くて、怖くて。でも、わんわんって犬が追いかけてきて…。
ぼろぼろ泣いて、
そして…。
「せい!!」
カーーーン!と打ち鳴らされ、天音の手にした薙刀が道場の床に叩き落とされる。
「っ!」
しびれた両手と、胸に突きつけられた薙刀の切先。
「…。まったく、稽古中に意識をどっかに飛ばさない!」
睨みつけられ、身をすくませる。
天音は、頭を下げ謝るが多苗は人差し指でこめかみを押さえため息をつく。
「どうしてかなぁ?たまーーに、天音は稽古中に何かを考えているけど…。何度聞いても教えてくれない、いい加減にしてよ、もう!」
きつい一言に、天音は居た堪れなくなり何度も謝罪を繰り返す。
今日は笑って許してくれないらしい…。
もしかしたら、今までの分まで怒りが消えないかもしれない。
おろおろとする天音に、多苗は「教えろ」と床に正座をさせた。身を小さくして、天音は多苗を見上げるが、多苗はひと睨みした。
「……、むかし…です」
ポツリポツリと天音は語りだす。
「小学校、2年生のころ家族でピクニックに出かけたんです。そこは、一面コスモス畑で…とってもきれいだったんです」
そう、朱音ははしゃいではしゃいで、両親も朱音は眼を離すと何をしでかすかわからないからよく気にかけていて。私は朱音が楽しいと楽しくて…。
「気がついたら、迷子になっていたんです。他のピクニックに来ていた家族もたくさんいたので、それで私はお母さんと、お父さんと朱音を探したんです」
いつの間にか居なくなっていて…。とっても、寂しくて、怖くて、悲しくて、それでも泣いちゃいけないと思って家族を捜して…。
「そのあと、かわいいブルドック犬に追いかけまわされて、大泣きしたんです」
今なら、あの面白い顔の味が分かる。
(でも、あの時の記憶が鮮明で――いまだに苦手…)
「コスモス畑の中に逃げ込んでも、あのこが追いかけてきて…」
逃げても逃げても、追いかけてくる。
「気がついたら、夕暮れのコスモス畑に居たんです、そうしたら―――」
一面コスモス畑で、あの子はまだ追って来て、泣きながら逃げて逃げて、
「薙刀を持った男の人に助けてもらったんです」
柄の方で追っ払った男の人にびっくりして、目を丸くて、また大きく泣いて…。
「その人は―――」
ふと、視界が霞む。
鮮明に思い出せる、その時の記憶―――。
でも、あの『男の人』だけは思い出せない。
まるで―――あの人の周りにだけ霧がかかって、あの人のすべての行動が、
(思い出せるのに―――思い出せないの…)
息を一瞬つめて、そして吐く。
「気がついたら、心配していた両親の腕の中にいて…」
空は夕暮れの茜色でなく、青々したスカイブルー。
「えっとですね、それで―――」
あいまいに答えた天音に、多苗は苦笑いを浮かべ、
「つまり、あたしと打ち合っている時にその男の事を考えていた、と?」
「……え?えっと、…そういうわけでは…ただ、思い出せるのにその人だけはなんだかかすみかかってて―――」
ぽかんと口を開け、天音は首を傾げた。
「そっかそっか!初恋かぁ~~」
「え?は??…て、ちが、違います!全然、違います!なんでそうなるんですか!?ちょっとその時のことを思い出してただけです!本当です、むしろ、初恋って言ったら…透君っあわわわ」
ぽそぽそと消えるような言葉と、耳まで真っ赤にした天音の頭を乱暴にわしわしと撫で、
「御嫁に来なさい!絶対、透が幸せにするから!!ね!」
「……多苗先生…」
複雑そうな顔をして天音は笑った。
無理です。
と、言葉が出なかったのはきっとまだ、彼を『好き』だから…。
でも、
「透君、隠してますけど、彼女いるんですよ?」
と微笑んで言った。
***
多苗の運転する車に送られて自宅に帰り、リビングから流れている二十二時から始まるドラマのBGM。
確か、三角関係のもつれから大変なことになっているドラマだ、と覚えている天音はそれに釘付けの朱音にただいまと声をかける。
「お帰り~」
ぱっと振り返り笑顔を見せ瞬時にテレビの方へと向かう。ドラマが終わるまで朱音はリビングから動かないだろう。小さく息を突いて天音は二階の自室に戻り、ベットの上に鞄を置いた。
彼女がいる、と、多苗に言った時、何とも言えない表情で多苗は「そう」と笑った。そりゃ残念ね。とも言った。
「……残念…」
兄弟子の透はいつも天音と一緒に稽古をしてくれた。門下生が透以外いなかったことも要因だが、一緒に薙刀をしている時は楽しかった。
いつも一本取られて、悔しかったけどさすがは「透君」だと思った。
どさっとベットの上に身を下ろし、寝転がる。
いつだったか―――バス停で女の子と一緒にいた透君と出会った時、ぶっきらぼうに、紹介された彼女。
かわいい子だった。ショートカットの髪をした。元気で明るくて、まるで朱音のような子だとも思った。
起き上がり、制服の上着を脱ぎハンガーにかけた。きれいに畳んであるパジャマを手にして、稽古後の汗を流すためにお風呂場に向かった。
「天音、お風呂入る?」
コップにオレンジジュースを入れた朱音が台所からひょこっと顔を出す。
「あのね、お風呂上り用に冷蔵庫にアイスがあるからね」
「うん。ありがとう」
伝えるとひょこっと台所に姿を消す朱音に、礼を言う。
「あ、あと」
再び朱音がひょこっと顔を出し、
「明日も練習?」
と聞いてきた。天音は、午後からと答えると、うしっ!と拳を作ってガッツポーズをとる。
ふと天音は朱音のこういったしぐさに、強張った笑みを張り付けた。
「……、また?」
ため息とともに呆れを含んだ声色で朱音に告げた。
「そ。今度はサッカー部の…B組の瀬川君」
朱音は肩を落として困ったように笑った。
そんな朱音に天音は仕方ないと苦笑いを浮かべ、
「断ってきてあげるね」
そう言った。
***
次の日、天音は朱音に『頼まれ事』のために出かける準備をしていた。
『返答は明日の祝日で、待ち合わせは森の山公園で午前九時』
ふと、朱音の言い方に違和感を感じた。
明日の祝日。
それは、前もって言われていた言葉なんだろうか?
(それにしても…朱音の人気があるのも考えものね。ひっきりなしに手紙と告白、本人も断るのも大変だし…彼氏でも作ればいいのに…)
中学校の時は朱音の真似をして良く告白の返事を断っていた。
朱音自身が断ることを嫌がっているのではなく、告白がひっきりなしに続いていたので断るにも身体が付いていかなかったのだ。
という事で、代わりに天音が朱音の真似をして断ることにした。
誠実ではないと、相手に失礼だ、とも二人で考えはしたが…。
一方的に書かれる手紙の待ち合わせ時間。
『ずっとい待っています』
という言葉。
勝手に待っているのだ――放っておけばいい、そんな風に思えない…悩みぬいた、幼い二人が考えた手だった。
「村上さん」
待ち合わせのところでぼーっと立っている天音に、同い年の少年―――彼が瀬川君だろう―――が駆け寄って来た。
頬を紅潮させ、
「き、来てくれてありがとうっ。ま、待たせたよね?ごめんっ」
ドキドキと心臓の音が響くのか、ガチガチに固まっていた。
音《こえ》は努めて明るく、朱音の声色で返答する。
「ううん。今来たところだか、気にしないで」
と、少年はぽかんと口をあける。
「村上さん?」
「なに?」
「なんで朱音さんがここにいるの?」
「え?」
二人は顔を見合わせる。
「…、なんでって、瀬川君が呼んだんじゃ―――」
「は?俺が頼んだこと忘れたの?!」
は?っと天音の頭の中に疑問符が浮かぶ。
「天音さんに気持ちを伝えたいって!だから―――」
その言葉に、そして、思わず―――逃げた。
「ちょっ村上さん?!」
彼の叫び声に一心不乱で逃げた。
顔が、耳まで赤く染め上げて、
(あ、あかね~~~~~~~~~~~~~~~~~っ)
うらみがましく心の中で叫んだ。
いつもなら膝の丈の長さのスカートは今日は、一五センチほど短い。
衣服もガーリッシュな感じのもので、朱音の服装借りている。
そう、『朱音』としてここに来た――けど、相手が待っていたのは朱音ではなく、『天音』だった。
どんっと身体に衝撃が走り、体勢を崩して尻もちを突く。
慌てたせいで不注意で誰かにぶつかった天音はすぐさま、「ごめんなさい、すみません!!」と声を上げ、そして―――失った。
たぶん、互いに声を失ったはずだ。
「…天音?」
「…透君?」
後方から、村上さんっと声が上がる。はっと振り向いて、驚いている透とその隣の『女の子』―――いつかのショートカットの彼女に再び謝罪をして走った。
家に帰ると朱音はいなかった。
「朱音?さあ…。あ、あの子が、『ごめん、断わり切れなかったの』って言ってたわよ?」
と不思議そうに首をかしげた母親。
天音はぐったりとして自室に戻った。
朱音から借りた服を脱ぎ、自分の私服を手に取り――、ため息をついて制服を取る。
私服だと、先ほどのことがありありと思い出せてどうしていいのかわからない。
(き、きもちって―――告白?)
最後まで聞いていなかったために、どう判断していいのか――いや、もうわかりきっているのだが天音は認めたくないのだ。
洗濯をしてある胴着を入れた鞄を持って、家を出た。
バス停に向かう途中、
「……、透君……」
待ち構えたように彼が電柱に背をもたれかけ、彼がいた。
「…よ」
短い挨拶を交わし、透は天音の手から鞄を奪う。
「あ、いいよ…。私持てる、よ…」
透の持つ鞄の取っ手に指をかけると、ぶっきらぼうに俺が持つと帰って来た。
今日のバス停に向かう道のりは、とても息苦しい。
「あいつ、なに?なんで制服?」
透はそう天音に問いかける。と、天音は苦笑いを浮かべる。
「なんだか、制服が来たくなったの…。私服は…ちょっと…。あと、よくわかったのね。さっきぶつかったのが朱音じゃないって…。朱音の姿だと結構みんな間違えるのに」
おどけたように言う天音に透はむっとした。
「おまえ、まだあいつの代わりに告白断ってんのかよ?!」
荒あげられた声に一瞬ぎょっとして透を見た。そして、うつむいきながら笑う。
「ううん。もうやってないわ…。朱音は今、日焼けしてるし…二人で並ぶとね、朱音の肌がちょっと小麦色なの。ちゃんと日焼け止めを塗っているけど―――」
「俺が聞きたいのはそうじゃない」
ぴしゃりとセリフを遮られて天音は困ったように透を見つめた。
そして、
「…、今回は、私の人」
ぽつりと言葉を出した。
****
スポンサードリンク